
屯田兵資料館 - 財団法人 旭川兵村記念館
4月26日より開館中! 特別展「射的山 稲荷山 旭山 〜山のあゆみ〜」もご覧になれます

昭和37年開村70周年を機に神社事業として、屯田兵をはじめ一般開拓の資料を境内旧社殿に展示していたが、昭和53年より新築事業を進め、昭和55年財団設立、昭和57年4月開館した。現在千数百点を展示している。総事業費1億4800万円あまり、内9000万円は一般募金、後は市・道・自転車振興会の補助金により賄われた。展示資料の内、屯田兵第三中隊記録・屯田兵絵物語原画綴りは旭川市指定文化財。背景画の屯田兵絵巻物も常設展示されている。館内には郷土史研修室など学習と、地元の剣道愛好家にその名も剣風館と名付けて、道場としての愛用され、ダンスサークルや、空手道場としてほぼ毎日多くの人たちが出入りしている。
展示の様子
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| 兵屋内部で実際に使われた屯田兵屋内部に展示している生活民具および、開墾に使われた道具が並んでいる。 | 生活用具コーナーから消防コーナーを写したもの |
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| 「汗」 開墾に疲れた屯田兵が、鍬を片手に遙かに旭山や大雪の嶺を眺めている姿をモチーフにした桂の一刀彫 |
入館料
| 大人 | 500円/1人 |
| 高校・大学生 | 400円/1人 |
| 小中学生 | 200円/1人 |
上記以外に、20名様以上でのご観覧の場合、団体割引もございます。お気軽にお問合せください。
屯田兵の歴史
創設
屯田兵は、明治6年に黒田清隆の建議によって創設された。最初は「士族屯田」だったが、明治23年に条例が改正され「平民屯田」となった。 屯田兵には17歳から25歳の身体堅固、兵農の動作に耐えうる者を採用し、移住には、支度料、旅費、荷物運搬料などを支給した。
入植
明治23年9月20日に旭川、永山、神居の3村が設置された。明治24年に永山村の東・西兵村(現永山)、明治25年に旭川村の上・下兵村(現東旭川)、明治26年に永山村字トオマの東・西兵村にそれぞれ400戸、合計1200戸が入植した。1村は400戸からなっていた。永山が第1、2中隊、旭川が第3、4中隊、トオマが第5、6中隊となり、それらで上川屯田第3大隊を編成した。大隊本部は永山におかれた。現在、本部の痕跡は現在の永山神社の近くの石碑だけになっている
屯田兵の生活
日常の生活用具や農・工具などの官給品、兵屋、1万5千坪(約5ヘクタール)の土地が支給された。
旭川、当麻では、兵屋の周囲から樹木を伐採し、熊笹、雑草を刈って焼き、耕した。当時は一帯は昼間も暗い大森林が広がっていた。大きなものは直径1.5から1.8mもあったという。また、1.2から1.5mもの高さの熊笹に覆われていた。開墾は虻やブトに悩まされながら伐採や笹刈り、木株の間を耕す毎日だった。しかし、10年〜20年で木株など1つも見られない耕地になったのである。作った作物は、麦、粟、稗、豆類、とうもろこし、馬鈴薯や、桑、麻である。兵役は、現役3年、予備役4年、後備役13年の計20年だった。移住後3ヵ月は生兵として、午前訓練、午後開墾を行ったが、その後は訓練・演習は農閑期に行われた。
明治29年以降、第3大隊は第7師団所属となり、日露戦争に出征し、東旭川屯田では35名の死者、75名の負傷者、永山屯田では40名の死者をだしている。(当麻屯田のデータ、永山屯田の負傷者のデータは不明)明治37年(1904年)に屯田兵制は廃止になった。





